国/地域レポート          台湾 要約  女性の地位の変化は、過去40年間、台湾の社会経済的変化全体における重要な一面である。 本文は、4つの領域における女性の地位の変化を検討する。その4つの領域とは、学歴、経済的地位、政治参加と社会参加である。女性が高学歴になってきたのにもかかわらず、文化的背景の為に、女性が男性と同等に扱われたり、研究を続けていくことを男性と同じように奨励されたりすることはいまだにない。職場での女性の雇用、研修、昇進についての差別待遇は、まだ一般的に行われている。女性としての伝統的な役割を果たしてきた人は、社会、経済、政治参加の場面において高い地位を獲得することができなかった。教育の発展は、まだ、将来の女性の地位の向上のための重要な要因である。それにより、経済がさらに発展することが期待されるのである。社会の価値観を変えることと同時に、組織や家族の援助も、社会・経済参加をさらに活性化させることと、女性の社会的地位の向上に必要なことなのである。 序文  台湾の人口は1992年に21,713,635人に達した。男女比は、107(男性51.60%、女性41.40%)である。80年代の急速な出産率の低下と共に、年令・性別人口構造は、社会が人口統計学上の変化の終末に辿り着いたことを証明している。2036年には人口成長率が0になることが予想されている(Manpower Planning Department, CEPD, 1993)。  既婚女性の出産回数は1979年の3.66回から1990年には3.12回に減少した(DGBAS, 1990)。既婚女性の80%は避妊を経験したことがあり、先進国と同じレベルに達している。社会・経済成長と共に、寿命は延び、女性の寿命は男性よりも5年長くなっている(附録2参照)。現在台湾には、女性を様々な分野において採用した強力な企業があり、経済は繁栄している。戦後以来、女性の教育レベルはかなり向上し、これは出産率、経済活動への参加やその他の社会参加に対して、重要な影響を与えてきている。徐々に向上してきた女性の地位の変化は、社会的変化や近代化の背景とは相対するものである。以下の各項目においては、学歴、経済活動への参加、政治参加、社会参加の4つの領域における女性の社会、経済的地位を示していく。 女性の学歴  戦後以来、台湾の人々はかなり高学歴になり、教育における男女格差は減少してきた。ここ数十年、教育の向上は、女性の地位を引き続き向上させる為の重要な要因となっているのである。  台湾の識字率は93.24%(Ministry of Interior,1991)である。非識字の人口は65歳以上に集中しており、その男女比はそれぞれ28.8%、71.2%となっている。男女間の教育格差は、年令が低くなるにつれて減少していく。学校教育場面においては、男女の識字率がそれぞれ50.89%と49.11%というように、ほぼ同率であることからこの現象は示されるだろう(Ministry of Interior,1991)。  現代台湾においては、女性も大学レベルまでの教育をうける機会を与えられている。核家族化、高校までの無償教育制度の導入、両親と女性両方の態度の変化などを伴った最近の経済発展によって、このような女性の教育機会が確保できたのである。財産、良い学校や現代的なものの考え方が集中している都市部の方が、男女平等の教育機会が与えられている。男性優位の考え方は、家父長制度に固有のものであるが、地方ではまだ家族関係に多大なる影響を与えている。家計が苦しくなったときなど、息子は娘よりも有利な立場にあるのが普通である。学歴に関しては、このような男女格差は明らかに縮まってきている。1950年には、大学における女子学生の比率はたったの10.89%であったが、1980年には、学部レベルで42.2%、大学院レベルで20.4%に達した。この値は1990年にはそれぞれ46%、25.45%に増加した。1992年には、職業学校の女子学生の比率が54%になった。  同時に、女子学生は人文学科や教養学科に集中していて、職業学校や大学、普通の学校や補習学校にはあまり在籍していない。つまり、急速な発展は女性にも教育の機会を与えたが、そのほかの社会・文化的要因によって男女間の教育のタイプや質は変わらずにそのまま残ってしまっているのである。芸術系の学校の男女比は1:1.163であるが、理系になると、1:0.23となってしまう(Ministry of Education, 1991)。男女の履修科目を分析してみると昔からの男性用科目、女性用科目の通りに学生のきれいな分布が見られる。公的な試験の結果を見ると、過去40年で女性の成績は飛躍的に向上していることがわかる。1985年より、政府は通常の学校教育制度外での女性の教育を促進し始めた。これは、個人の成長を促すこと、自尊心と自信を持つようにすること、そして、社会参加と同時に再就職の為の技術を身に付けることなどを目標としている。しかしながら、これらの活動は主に台北で行われている。 女性の経済的業績  女性の雇用の分布はここ25年間で、農業から製造業へと移動してきた。商業やサービス業は産業に次いで、それぞれ22.82%、26.97%(1990)と女性の雇用率が高い部門である。農業はたった10.17%にまで落ち込んでしまった。台湾の産業化の過程で、女性労働者は大きな役割を果たしたと多くの研究が指摘している。1990年には女性の労働力参加率は44.5%(表2参照)ではあるけれども、女性は総労働力の僅か37.5%を占めているに過ぎない。  女性の労働参加が劇的に増加したのは、1972年から1987年の15年間である(37.07%から46.54%)。しかしながら、これ以降は徐々に減少している。この理由として考えられるのは、女性の高学歴願望が強くなったこと、再就職する女性が少なくなったために女性労働者の割合がなかなか増加しなくなってきているということが挙げられるだろう。表2に示されているように、労働参加率における男女格差はまだまだ大きい。しかし、過去40年間、学歴と年令層という点において、女性の労働力の構造は大きく変化してきた(Kuo,1993)。これは、女性の労働参加がかなり進歩したということを示している。   女性の労働参加の成長率は、台湾の発展におけるビジネスの周期と明らかに同調して上下する、周期性を持っているようである。 台湾の集中労働産業化の初期の頃には、女性労働者は圧倒的に若く未婚者が多かったが、ほとんどの者は小学校教育は受けていた。その後の軽産業の発展は、女性の労働者の地方から都市部、郊外の鉱業地帯や輸出業にかかわる地域への大量移動を余儀なくした。出産率の低下と共に、若い女性の労働者人口は減ると同時に、1970年代初期以降、育児を終えた既婚の女性が再就職し始めた。  過去10年間、たくさんの女性がホワイトカラーとして雇用されることが多くなった。1982年以降、女性のホワイトカラーはブルーカラーの人数を抜き、小売業、社会福祉事業、保険業、商業などの第3次産業に就く女性労働者が特に多くなった。過去20年間、農業に従事する女性の割合は一定して減少したが、同じ期間で、製造業に携わる女性は倍以上になった。女性は長い間男性に占領されてきた職業の領域、例えば、弁護士、化学者、エンジニア、建築家、コンピューター科学者などにどんどん進出し、結果として職業が多様化してきた。近い将来、女性の政府の役人の割合がますます増加することが予想される。なぜならば、先にも述べたように女性は男性よりも国家試験で概して良い成績を修めているからである。  つまり、女性の労働力は以下に述べるような相互に関係した要因によって、ここ25年間のうちにかなり増加してきた。その要因とは、未熟な労働に対する産業化の強い要望、都市部の第3次産業の求人の増加、女性の全体的な高学歴化、テクノロジーの発達による家事の簡易化、子供の数を減らして長く働くという選択肢を女性に与えた家族計画が挙げられる。女性の労働に対する社会の期待の変化は、女性に母親以外の新しい役割を選ぶことを勧めた。そうすることによって、女性の収入で多くの家族の生活水準は上昇したのである。経済の変化によって生じた労働機会において、台湾の女性は積極的に活躍してきたが、男女間の雇用状態の実質的な差はまだ明らかに存在している。商業やサービス業のどんなレベルにおいても女性労働者はかなりの利益を上げたが、ほとんどの女性労働者はまだ、生産過程の一番低い位置にいて、低い収入で、責任もなく、仕事の保証もあまりされていない様な状況に置かれている。  その上、女性の職種は、専門職のレベルにおいてでさえ男性に比べると専門化がかなり遅れている。女性が大学で受ける教育は、自然科学の分野よりも社会科学の分野に片寄っているため、女性は教職や事務職に就きがちで、エンジニアリング、建築、医学やその他の科学の領域ではなかなか頭角を現してこないのである。大学の研究室、研究所、そして公的・私的機関で研究に従事している人の割合にも、大きな男女格差が見られる。国立台湾大学では、全教授中、女性の教授の割合はたったの9%で、この数字は理学部、医学部、建築学部、工学部の教員にいたってはさらに低くなっている。芸術学部のような女性との入学が圧倒的に多い学部では、1/4の教授が女性であるのは驚くべきことではない。  女性の労働参加とライフサイクルは密接な関係がある。彼女たちは、男性に比べて教育を受ける期間が幾らか短いために、彼らよりも早く働き始める。しかしながら、多くの女性は結婚や初出産を機会に退職し、その後再就職する女性はかなり少数である。よって、20歳から24歳の年令層において最高の雇用率を示すが、その後は下降し、再び35歳から44歳の年令層において上昇するというように、女性の年令別労働参加のグラフはM字型曲線を描くのである(Tsay,1985)。短く、障害の多い雇用状況と家族に対する責任のために、男性は女性に比べて昇進しにくいし、低いレベルの職業に就かされることが多い。  Chouら(1990)は、女性が管理職や経営陣のトップレベルの地位に就くことは稀であるが、事務や営業部門では女性が代表者となることがかなり多くなってきていると述べている。Kuo (1993)は、幹部役員や管理職といった地位は男性に独占されてきたといっている。表3からも分かるように、このような地位における女性の割合は1990年までは常に10%未満であった。  最近の調査によると(Yu,1991)、ここ何年かで女性の働くことに対する動機が変化してきている。女性は家計の足しにしかならないような金額を稼ぐという前のステレオタイプは、女性の収入は家庭にとってとても重要なものであるという考え方に、徐々に変化してきた。30.33%の既婚女性が結婚のために退職したとされている。退職した女性のうち58.03%の人が結婚、28.49%の人が出産を理由に退職している(DGBAS,1991)。結婚退職や出産退職を奨励する昔ながらの習慣は、雇用者が退職するようにと女性社員を刺激するための"嫁入り持参金の給付"や"出産費用の給付"という形でいまだに遠回しに行われている(Yu,1991)。しかしながら、生活水準が向上したことやサービス産業が成長したことにより、女性の再就職は一般的なことになってきている。  収入、実習、昇進の機会などにおいて男女格差は存在する(Yu, 1990)。求人広告を見ると、性別によって職種を分けていることが明らかに分かる。男性は、リーダーシップ、専門的な訓練や技術を必要とする管理職の様な地位に好まれ、女性には事務的処理能力や、美しい外見が要求される。  女性の社会的地位が高くなり、社会的な動機を持つようになると、彼女たちの成功は人口減少、社会的排斥、そして女性性の喪失など悪い結果をもたらすとまでいわれた。このようなマイナスの要因が存在すると、女性は自分自身の実際の業績を隠してしまう。このような心理減少はよく"成功恐怖"と言われている(Chen,1987)。 政治参加  教育と経済活動が向上したことによって、台湾女性がもっと政治参加に興味を持つことが期待されている。1947年に制定された法律では、全議席の約10%を女性のために確保して、最低、この人数の参加を保証する制度が定員の枠内に設けられた。幾らか皮肉的ではあるが、この台湾の議席確保制度は女性有権者や政治家の間でも、最近では疑問視されてきている。理論的には、女性の低い参政権が法律で規定されている場合には、選挙政治に参加する機会を保証する議席を与えられるべきである。しかしながら、実際の政治ではこのような議席確保の制度は、女性の議席を単なる天井桟敷にしてしまうという効果を持っていたのである(Chou,Clark and Clark, 1990:95)。  平均的に、女性の政治活動は男性と比べるとかなり遅れを取っている。一番最近の選挙キャンペーンからも、どんなレベルにおいても女性議員の割合は20%未満であることが分かる。Liang(1993)の最近の研究によると、地方での女性議員の割合は増加し、16.9%に達した。多くの女性は台湾人系、つまり、島に住んでいた台湾人の子孫である。なぜならば、本土の中国人は政府と共に1949年に台湾にやってきたからである。地方議会の女性議員の平均年令は45歳から54歳の間である。彼女たちのほとんどは高卒または大卒の学歴を持ち、大多数の者は政府期間で働いた経験を持つ。多くの者は個人企業を経営しているか、または台湾地方女性協会に事務所を設けたり地域活動を積極的に行ったりしている。さらに、女性議員のほとんどが、KMT(与党)に所属している。  過去40年間、中央議会レベルにおける女性の政治的リーダーはかなりの少数派であった。今迄のところ女性の大臣は、元大蔵大臣で現国務大臣のShirley Kuo氏一人しかいない。女性で最高の地位を獲得したのは、KMT中央委員会の副書記長に選出されたTchong-koei Li氏である。その他の大臣クラスの政府高官としては、Hsueh Yung Shen氏(文化発展企画審議会議長)、Poh Ya Chang氏(保健省長官)がいる。21州都のうち、1993年現在、女性が知事に就任しているのはたった一箇所である。  女性の政治的場面への参加が低いことの理由は、家父長制度に見いださなければならない。ある研究は、社会化の過程での経験、台湾における基本的な政治的指導や活動における主な男女差を報告している。例えば、男子学生は、政治集会や講演会、キャンペーン活動に参加し、女性よりも政治参加をする。そして、彼らは将来政治的場面で働くことを、女性よりも希望している。選挙の投票についても、女性は家族の決断や希望に従って投票するが、男性は候補者の論点や過去の政治活動にもっと注目している。台湾における政治的な男女格差はアメリカ合衆国よりも大きいという結論が出されている(Cou et.al., 1993:73)。  教育レベルが向上し、より高い社会・経済的地位を獲得した若い女性が、将来どんどん政治に参加するようになるという点において、Chouら(1990)とLiang(1993)の見解は一致している。議席確保制度はもう必要ないようである。政治的な環境が変化すれば、与党の政策に与える影響力というのも弱くなってくる。女性が与野党両党でもっと活躍するのを見たいものである。 社会参加  経済的参加に比べると分かりにくいが、女性の社会参加は活発になり、新しい方向に向かっている。娯楽や社会・自己教育が目的のものもあるが、一方では、女性の社会的地位を向上させることを目的として、問題を解決するための資金や力を貸すといった活動をしているものもある。女性の活動は、花嫁修業的な(生け花、料理)ことや社会奉仕などのように伝統的なものから、自分自身の成長のための活動、女性に対する暴力を防ぐ活動、そして環境問題や消費者問題に取り組む活動などに変わってきている。初期の女性団体は、ストレス対処法や自尊心の向上による自己の成長というよりも、家庭や社会の要求に答えることを目的としていた。副収入を得るためや、恵まれない人々のための慈善事業をするための内職をしたいと考えている女性に職業的技術の訓練とは別に、家族の重要性は一貫して強調されてきている。KMTの援助のもと、このような昔からある女性団体は島全体に拡大されたネットワークを持っている。  1985年以前は、多くの女性団体は政府の援助のもとに設立された。同じような内容の女性団体は一団体に限るとする組織法の制約が主な原因である。このような初期の、そして既存の女性団体には、小規模の宗教団体や、地方の様々な女性団体の支部、女性の専門家の協会(作家、看護具、弁護士など)、そして国際的な女性団体(ガールスカウト、若い女性など)の支部が含まれていた。少数派としては、問題解決団体(未婚の母、視覚障害者、身体障害者のための家)が挙げられる。  1985年以降に設立された女性団体は、家族ではなく個人を重要視するといった、今迄とは異なった性格を持つようになった。特に、女性の地位の向上、障害を持つ女性に対する援助、もっと広範囲での多用な活動や機能を行うことに重きを置いた。このような団体は大抵非政府団体で、全女性団体の三分の一を占めている。  1986年の戒厳令の解除やコミュニケーションの自由を拡大した民主化に強く影響されて、都市部の中流階級の女性たちは、自分たちの間の共通の関心に基づいて小規模の団体を作った。このような団体ができたのは、教養のある多くの若い女性が、台北に集中していたことが原因である。中には、少数ではあるがヨーロッパや北米で教育を受けた者もいた。このような団体は、独特の方法で自分たちを表現することによって頭角を現してきた。例えば、売春のような社会悪について言及したり、男性や女性のステレオタイプ的な描写に抗議したり、台湾における環境問題に関する活動や今持ち上がっている問題に対して積極的にサポートしたりしている。Warm Lifeという団体は、離婚した女性で構成され、倫理面からの援助や心理的カウンセリングを行っている。また、Homemaker's Union and Foundationという団体は、1989年に設立され環境保護に関する先導的団体であるだけでなく、人道主義の教育、人権、青少年売春反対運動、反ポルノ運動などの様々な活動に参加する気持ちを多くの女性に起こさせた。教養のある中流階級の女性を代表するように、Homemaker's Union and Foundationは、強いリーダーシップ、メンバーの協力、そして意思決定場面における民主主義精神などに支えられたしっかりとした団体である。限られた資金の中で、公報を発行し、女性指導者を育て、共同購入を実践し、環境教育を支持してきた。国立台湾大学の人口調査研究所によるWomen's Research Programは1985年に、アジア財団からの資金で発足した。性教育、保健、雇用、歴史、調査方法に関するセミナーのアレンジから、台湾女性に関するかなりの数の文献を出版している。最も新しい文献は、中国語と英語で書かれた、女性の注釈付き伝記である(Women's Research Program, 1992)。この文献から、努力とこのチームがプロのレベルに達してきたことがわかる。台湾における女性研究に協力する若い研究者と、大学において女性学を教える課程の設置に協力する大学の先生たちの援助によって、この団体は支えられている。島の別の場所では、Genter & Society ProgrammeがTsinghua大学に発足し、Gender Research Centerが高雄医科大学に設置された。  台北に集中していた女性の活動は、他の州都に広がってきている。Awakeningというフェミニスト団体は台中と高雄に支部を持っている。異なった内容を持つ女性団体は、社会からの要求によってこれからも増えていくと思われる。セミナーを開催したり、海外で行われる会議になどに参加したりして、それぞれの台湾国内の団体が努力することにより、将来、国際的な女性団体とのかかわりが増えることを私達は期待している。環太平洋・東南アジア女性協会主催の国際環境教育セミナーが1993年8月に台北で開催された。このセミナーには、16の国や地域からの女性が参加した。女性問題に関するの会議は規模も大きくなり、台湾女性の目標の向上を手助けするであろう。 結論  台湾は戦後、政治的経済的側面で大きな変化を経験した。過去40年間で、台湾は農耕社会から世界一の外か貯金を誇る国となった。世界的な不況の中、経済的成長を続け、実際に世界第11位の貿易大国となった。この間、国民はより良い教育を受け、より多くの情報を享受するとができるようになり、高学歴の余剰人員がでるようにまでなった。  実質的な政治的解放は、以前の独裁的な政治体制のもと、特に1980年代後半の民主化改革により起こった。野党である民主進歩党(DDP-Democratic Progressive Party)は1986年に結成した。戒厳令は1987年に解かれ、表現の自由の向上やより解放されたスタイルの政治が可能になった。  女性の学歴はここ30年間の間で飛躍的に向上し、台湾経済への女性の進出がこの事実を良く表している。学校教育制度における差別は少なくなったものの、女性が男性のようにもっと高度な教育を受ける平等な機会やそれを奨励するようなことは文化的な要因によって妨げられている。女性はその役割を、家族の世話や子育てと行った伝統的な役割の領域から、社会的・経済的参加の領域まで広げたわけだが、これは彼女たちと伝統的な家族の義務との摩擦無くしては不可能なことであった。例えば、現代の働く女性のジレンマは、平行線である、普通の家族生活(結婚して子供がいるなど)と仕事をどうやって両立させるかということである。さらに、管理職や経営陣の女性の比率の低さにも示されているように、様々な組織における女性の研修と昇進はまだまだ平等とは言い難い状況である。多くの研究によって、家庭と職業とどちらを優先するかと聞かれると、台湾の既婚の女性は職業よりも家庭を重視するということが明らかになっている。このような女性の伝統的な役割に対する強い信奉は、高い目標を持っている女性にとっては、経済活動、社会活動、政治活動のどれに参加するにも厳しいハンディキャップとなるのである。よって、このようなハンディキャップを克服できるかどうかは、社会的なサポートと個人の努力にかかっている。  全体として、現代の中国人女性は自分たちの母親や祖母に比べて、家族の中でも社会的にもよい地位にいると考えている。しかしながら、中国人の価値観やそれに付随した社会的重圧はいまだに、女性自身の人生の中での役割や地位に対する態度に強い影響を与えている。  女性に対する制度的な基準の改革、もっと平等主義を強調した法律の制定、政治的場面でもっと女性を起用することの奨励、そして働く女性に対するサポートの向上を望まずにはいられない。  女性の役割の変化に対する、年配の世代の女性による苦悩は、もっと好意的な社会的態度に取って代わられたが、もっと若い世代の女性は自分たちの権利というものに対してまだ敏感でなければならないので、彼女たちは女性に対する社会的差別の犠牲になってはならないのである。女性の改革への熱意をこのまま持続させるためには、家庭内、そして社会の全てのレベルにおける男性からもっと援助が必要である。学校教育制度のどのレベルにおいても性教育は行わなければならない。女性が国の社会・経済・政治的開発に全体的に貢献できるようにするために、もっと女性が主導権を握る機会を増やすべきである。  最後に、そして最も重要なことは、私達の国の政治的指導者は、現在の女性の地位や女性問題に対する国際的関心についてもっと学び、敏感になる必要があると思われる。女性の地位の向上を目的とする国連女性10年の終わりを告げる1995年には、1985年からまた10年が経ってしまったことになる。いま個祖、我が国の社会・経済的発展に照らし合せて、多かれ少なかれ、どれだけ私達女性が社会・経済的地位を獲得してきたかを見直してみるときではないだろうか。