国/地域レポート      モンゴル                 モンゴルの概略 位置:     中央アジア;ロシアと中国に挟まれている。 面積:     1、566、500平方キロメ−トル。 人口:     220万人;その内女性は50.1%を占める。 人口密度:   1平方キロメ−トル当り1.4人。 人口増加率:  2.1〜2.5人。 首都:     ウランバ−トル;人口50万人。 主な経済活動: 半遊牧、牧畜;家畜2500万頭(羊、山羊、牛、馬、ラクダ)、         鉱業;(銅、モリブデン、石炭、ほたる石、金)、         軽工業:(羊毛、カシミア、原皮なめし、皮革、布地、食品)。 政治制度:   1990年以来、議会制共和国。         1992年新憲法制定。 経済制度:   1990年後期より、中央計画経済から市場経済へ移行中。 最近の経済発展:移行期にあって、モンゴルの経済は深刻な社会経済的危機にある。         GDP(国内総生産)は1991年に9.9%、1992年に7.8%、        1993年に3,7%へと下降した。         年間インフレ率は1991年に154%、1992年には最高の321        %を示し、1993年には183%であった。 歴史:  13世紀にジンギスカンが、分裂していたモンゴルの部族を統一して、モンゴル国家を形成した。17世紀から19世紀までの200年の間、モンゴルは満洲族の植民地となった。国民がこぞって戦った結果、モンゴルは1911年に独立国となった。1921年、モンゴル人民革命党が結成され、社会主義制度がしかれた。この路線に反対する国家指導者、軍指導者は抹殺された。1924年にモンゴルは第2番目の社会主義国となり、続いて1930年代と1940年代に、”反革命分子”に対する大量粛清があり、国家指導者・政治的指導者とその家族、その他仏教の僧侶、科学者、作家を含む数千の無辜の民が逮捕され殺された。700以上の僧院や寺が、ロシア兵も手伝って破壊された。中央計画経済モデルを押し付けられ、モンゴルは政治的にも経済的にもソ連に依存する事となった。1960年代以降、”政治的不穏分子”に対する粛清の第2波が始まった。  このようして、モンゴル人民革命党は全ての反対者を消す事に成功し、70年間、国を支配した。モンゴル国民は、政治的・経済的に完全な自由を享受した事がなかった。人権蹂躙は当たり前であった。モンゴルの歴史の新しい1頁が開かれたのは1989年後半であり、民主的政党(複数)が結成され、民主化と市場経済化の為に、複数政党制の採用と憲法の改正を要求した。  第1回の民主的で複数政党制での選挙は1990年に行なわれ、新たな民主的憲法が1992年に制定された。  第2回目の選挙は1992年夏に行われ、モンゴル人民革命党が議席の92%を得て、政府を作り、再び1党支配に戻った。これは、選挙法に欠点があるのと、移行期に生じた生産の急激な不振と、失業とインフレの上昇という困苦が、民主勢力の責めに帰せられた為である。  1989−92年に起こった民主化のプロセスは、これ以後スロ−ダウンし、民主化からの逆行が時として政治的不安定をもたらす。中央計画経済から市場経済への移行は、人々の平均的生活水準を落とし、貧困層の大幅な拡大をもたらした。                                         女性労働  過去の社会主義体制下における女性の高い労働参加率は、女性の就労が否応無しだったからである。モンゴルの経済の特徴は、数少い大規模な国有産業と、農業協同組合と、国有農場への労働集約である。その大部分は、非能率的で損失を生むばかりで、政府から大量の助成金を注ぎ込む事によって、ようやく存続していた。  移行期には、安定・再構築政策の枠組の中で、助成金は止められ、あるものは民営化された。企業部門も、旧式の設備と部品の欠乏で困難を来している。石炭・電力部門は十分な電力供給が出来ない。保健と教育への国家予算は、1991年に26,0%、1992年に24.7%削減され、この減少傾向は続いている。これらは女性が大半を占める分野であった(ヘルスケアでは79.1%が女性、全医師の74.5%に上る女医を含む;教育では66.6%、通信では55.7%、保険・金融では58.0%が女性であった)。このような状況で、失業は明らかに急増した。大幅な財政赤字により、政府機関においても公務員を大量に減らした。公式発表によれば、失業率は7%である。失業者の多くは労働局に登録していない。なぜなら、その機構や機能が不十分で、信頼するに足らないからである。  1990年に年金と社会保障に関する新しい法律が作られると共に、行政は労働力削減を開始し、解雇者の60%以上が女性であった。その内3万4千人はシングル・マザ−であり、特に3万1千人は16歳以下の子供を複数抱えていた。今日では失業者の53.8%が女性である。女性は女性であるが故に犠牲者となる−−女性は解雇者のトップ・採用者の最後に置かれる。多くの場合、女性は教育程度や資格の点ではなく、ジェンダ−によって失職したのである。女性は男性に比べて給料も少なく、昇進も稀であった。かつて政府はがむしゃらな人口増加策をとり、女性は避妊する事を許されず、中絶は禁止されていた。今日、子沢山の女性は最も被害を受けている。女性の問題について、政府は現在何の施策も持たない。栄養不良と劣悪な医療サ−ビスにより、妊産婦・乳児死亡率は近年増加している。  小さな個人企業を奨励するような政策や、中小企業を開設する政策もなく、女性が銀行融資を受ける途も限られている。故に、女性は仕事を創り出し収入を産むに必要な前提条件を欠いている。  かつては全員が無償の教育を受けられたが、授業料を払わなければならなくなると、貧困家庭、特に子沢山の女所帯には配慮が必要である。教育程度は雇用と直結しているので、この為の特別基金が設けられねばならない。医師・教師・公務員の給料は非常に低いので、高い教育を受け、高度の専門技術を身に着けた多くの女性がこれらの分野を離れる傾向にあり、それは質の上でも暗い影を落としている。  生活水準は急速に悪化し、”二重の負担”は何倍にも大きくなっている。ジェンダ−別のデ−タがない事が、女性の現状分析や、政府の政策が女性に与える影響を測る上で障害となっている。デ−タ収集と調査を目的とする独立の非政府機関の設立が必要である。                                 貧困  経済の変革と調整に要するヒュ−マン・コストは、モンゴルでは高い。移行期に人々の生活水準は悪化し、貧困は拡大した。人口の1/4以上(26.7%)は貧困ライン以下にある。全く違ったシステムからの政治的・経済的移行は、心理的ショックを伴う。貧困と失業は、悪い結果をもたらす。例えば、栄養不良に基く健康状態の悪化、学校中退、ストリ−ト・チルドレン、妊産婦と乳児の死亡増加、犯罪や自殺の増加とか、アルコ−ル依存症、買売春の拡大に見られる道徳の退廃と人間の価値の剥奪である。  10年前、16歳から20歳の間の女性の千人中(原文欠落)は結婚していた。現在では83人に減っている。離婚者は増え、16歳以下の子供を持つ離婚女性は1万9千8百人いる。その内1万1千7百人は、3〜5人の子供がいる。これらの女性の大部分は、子供の衣食住を賄うという大きな負担を背負っている。  貧困者の中で、女性と子供という分類に注目しなければならない。1993年末に、貧困家庭の21.5%は女所帯で、24.2%は16歳以下の子供が4人以上いた。正式に登録された失業者の約54%は女性であった。政府に貧困対策はなく、貧困に対処する機関も設置されていない。最近、政府はUNDP(国連開発機構)の援助により、”貧困緩和プログラム”を作り、6年間で貧困者の数を10%にまで減らす事を目的としている。このプログラムに女性のNGOの参加を欠いては、貧困の問題は解決できない事を政府は理解すべきである。このプログラムによれば、特別なクレジット制度、回転融資基金により基盤の脆弱な人々に雇用創出、中小規模の労働集約的事業の導入、訓練の向上、技術・職業訓練による教育を貧困家庭の子供が受けられるように援助する、職業安定所の機能を改善する等々を目指している。地方に住む人々が医療サ−ビスへのアクセスを得る事、地方の寄宿学校を維持する事も重要である。特に女性の貧困緩和、女所帯への技術訓練、資金援助を強調したい。                      農村女性  全女性の42.6%が地方に住み、殆どの人が家畜の飼育に携わっている。これは労働集約的な仕事である。女性の生活水準は、近年急激に悪化した。かつては物資や飼料の供給、郵便、医療のサ−ビス、それに農業用原材料も、国家の中央集権的供給ネットワ−クによって確保されていた。   現在では、家畜は私有化され、農業協同組合や国有農場も解体された。その代りとしての、市場経済にふさわしく地方と都会の工業化地域とを繋ぐ、新しいメカニズムがまだ出来上がっていない。道路事情が非常に悪く、運輸コストが高いので、市場の力が弱い。運輸部門の財政難とインフラストラクチャ−の発達が悪く、小麦粉、米、子供の靴、衣服等の生活必需品の供給は悪化した。運輸、通信は発達していず、移行期に助成金が止められて、状況は更に悪化した。  地方に住む人々は、電気も温水も公衆浴場もテレビもラジオも無い暮らしをしている。地方のたった4.4%の世帯が小さな発電機によって電力を得、1.2%が搾乳機を持ち、34.7%がラジオを持っている。ラジオもテレビも新聞も無くて、情報へのアクセスも限られ、知識を増す可能性も少ない。最近の2年間の妊産婦死亡の83%は地方の女性であり、73.5%は貧困者である。分べん室の数が減ったため、地方では家庭出産が増えた。中途退学者は1988年〜89年には4%だったが、92年〜93年には22%に増えた。寄宿学校の悪条件、家畜飼育における労働力の不足が主な原因である。 ワークショップ                                  <女性と政治  モンゴル>  モンゴルの歴史において、この70年間に、女性問題に関しては成果もあったし、失敗もあった。1921年の革命後、政治的・経済的に男女の平等が唱えられ、法律も整えられた。女性の間で大規模な非識字撲滅キャンペ−ンが張られ、政治的・経済的意思決定に女性を参加させようとする試みも初期には行われた。  現在でも、女性の政治的権利について議論するのはふさわしくないと思っている人も沢山いる。しかし、女性の政治的権利を戦いとる事は、モンゴルの民主化を戦いとる上での不可欠な要素であり、人口の半分を占める者の利益を無視しての民主主義は有り得ない、というのが第1であり、第2には、私達の過去の経験が示すように、女性に政治的権利なくしては、その他の全ての事実上の権利もない;第3に、1つの政治制度から別の政治制度への移行と市民社会の形成の際は、女性が政治に重要な役割を果たすべく問われている時だと思う。  女性の状況に起こりつつある変化は、移行期にある他のポスト社会主義国と同様である。これらの国には次のように共通な特徴がある。第1に、女性の選挙権・被選挙権は何年も前から確保されでいた(平均56年)。これは重要なことだが、法律上の権利と、実際上の法律の適用との間には、大きなギャップがある。第2に、非識字の撲滅に成功した国々は、全員が無料で教育を受けられる事と相俟って、男女の間に教育上そして職業上の資格の差はない。第3に、一般的に社会主義国では、女性が仕事に就くのは必須であり、高い労働力参加率に反映していた。第4に、女性の生活水準は低かったにも関わらず、妊婦と乳児の母親には恩典があり、公立の育児施設と幼稚園、それに無料のヘルス・サ−ビス、老齢年金等の社会保障が確実に与えられた。  新たな政治的・経済的文脈の中で女性問題を問い直すためには、女性の地位を測る新しい物差しが必要である。世界の1/4の人口にとって、民主主義、議会制、複数政党制、自由選挙、正義、人権、私有制度、競争等という考えは不慣れである。モンゴルでは未だ民主主義の知識が不十分で、民主的な制度も、人権という文化も無い。政治に積極的に参加している女性達は、実際に新しい歴史的経験を積み重ねつつある。女性の政治的権利の行使はこの枠組の中で捉えねばならない。  1990年の第1回民主的選挙で選ばれた、新議会の53名の議員の内、女性はたった2名、3.7%であった。1992年の選挙後の議会では、76名の議員中、女性は3名、3.9%であった。1990年の選挙制度は比例代表制であったが、その次ぎの選挙では得票順位制をとった。どちらの制度でも、女性の選出は僅かだった。これは現実の女性の政治的地位は、作り出されたイメ−ジとは掛け離れた所に位置している事を示す。今日、大統領府にも、内閣にも、最高裁にも、地方政府にも、選挙で重要な約を勤める選挙委員会にも、女性は一人もいない。女性大使もいない。  この様な結果をもたらした原因は次ぎの通りである。第1に、モンゴルでは、他の社会主義国と同様に、政治的権力は支配政党から議会へ移り、そこでの女性の数が減ったということは、男女間の実際の権力の分配は男性に偏っている事を示す。第2に、民主的制度や機構が欠如し、強力な女性運動も無い。議会や政府に送る女性候補を選ぶように、政党に圧力をかける女性部も無い。第3に、公的領域は男性に属するという社会通念と女性自身の自信の無さから、女性にためらいがあって、公職に就く運動をしない。  第4に、”二重の負担”に加えて、生活水準が経済危機と共に急激に悪化し、女性は政治に参加する時間もエネルギ−も削がれた。  入手しうる最近のデ−タとして1989年では、42.5%の女性が高等教育を受けている。大学では女子学生は54.6%を占め、その後も上昇傾向が認められている。教育、保健、小売業、金融業では、70〜80%が女性であり、中級管理職の30%を占める。高い教育レベルと雇用率にもかかわらず、圧倒的に女性が多い分野でも、女性はリ−ダ−の地位に就けなかった。もし環境が整いさえすれば、リ−ダ−シップを発揮して、公職への運動をするにふさわしい潜在的資源と職業的能力をもった人材は実際にいる。  女性の真の政治参加は、1990年に民主主義への転換を求めて、女性達が自発的にしかも大規模に戦いに参加した時に始まる。多くの女性活動家が新しい政党の創立メンバ−となり、モンゴルの歴史上初めて政党の指導層に選ばれ、政策決定参加に関わった。これを機会に、女性は政治に質的変化をもたらすべく挑戦しなければならない。   この間政治的経験を積み、考え方や関心を同じくする女性達が集まって、新しいNGOを組織した。以前に比べて。これこそが女性によって始められた新しい女性運動のスタ−トである。議会でNGOに関する法律の採択が遅れ、まだNGOに法的枠組みや支援がない。モンゴル政府は女子差別撤廃条約と、ナイロビ将来戦略を批准した。女性施策はなく、政府の公約も守っていない。  女性は、政策が女性に与える影響が大きいので、政策を策定する上で女性が関心を持っている問題に十分考慮を払ってもらいたい、と要求している。これはまた、民主制度と機構の一段の発展を必要とするものである。情報交換と自由なマスメディアを欠くため、女性は自分達の状況が良く分からず、簡単に犠牲にさせられることが多い。女性は、自分の政治的権利の使い方、だれに投票すべきかを知らねばならない。政治的権力が一夜にして多くの変化をもたらすからである。女性には変える力がある。皆の為になるように、政治を良くする大事な力を持っている。                                               (訳 奥村祥子)